これからの選ばれるビジネス!

これからの選ばれるビジネス!中島セイジのビジネスの達人

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07/02
2018

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「負ける建築」の流儀

あの建築家の隈研吾さん、神楽坂近くに住んでいるって?!
だから「赤城神社」の設計に関わったんだとか。
そして神楽坂駅前の「la kagu(ラカグ)」も隈氏のデザインだというし...

これらのスポットは私にとっても近所であり良く訪れるわけだが、
言われてみれば隈氏らしいデザインかもしれない。
そう、木材の持つ温かさをうまく活用しているというか、
どこか新しいけれど馴染んでいるというか。
これが隈研吾氏らしさなのだろうが...。

何度か訪れた南青山のあの割りばしで造ったような
パイナップルケーキの店も隈氏らしいデザイン。
新歌舞伎座も、根津美術館も隈氏設計で、
そして新国立競技場もとなる。

いや~とにかくこの頃は、 あちこちで“隈研吾氏設計”を耳にする。
そして実際に目にするそれらの建築物にも当然だが共通点がある。
その共通点とは、隈氏的に言えば「負ける建築」 ということなのだろうが...??
はたして「負ける建築」とはどういうことなのか。

「勝つ建築」に対して「負ける建築」と言えばわかりやすいかもしれない。
すなわち、これまでの周囲の環境を圧迫してきたのが「勝つ建築」で、
周囲の環境になじみ、さまざまな外力を受け入れ、
柔軟に対処しながらも独創性あるものへと展開するのが「負ける建築」ということ。
う〜ん、この「負ける建築」とは、隈氏ならではの独特の表現なのだろう。

言われてみれば「赤城神社」も「ラカグ」も
周囲の環境に馴染んでいながらもどこか独創的なところも兼ね備えている。
そして、どちらも多くの人たちがいつの間にか集まってくるのだ。
(これが負ける建築のスゴいところかもしれないが…)

実は予算や敷地など「制約」を逆手にとって
独創性を生み出しているとも隈氏は言っている。
確かに、さまざまな制約であり条件は、
私たちのクリエイティビティを刺激して、
よりこれまでにない発想へと導いてくれるのだ。

ふっふっふっふっ、これぞクリエイターの存在価値であり、
「負ける建築」の意義。

この隈研吾氏のチャレンジ精神こそが、
建築家でありクリエイターとしての
“存在価値”を創り出しているということ。
だからどんどん無理難題にチャレンジしない限り、
自分の“存在価値”は見えて来ないということなのだろう。

えっ、隈研吾さんって同い年かぁ~。
(いつの間に差がついたんだろう…)
私もクリエイターの端くれ。
“存在価値”のため、まだまだチャレンジ&チャレンジ。

よし…この「負ける建築」に対抗して
「負けるプロジェクト」「負けるプレゼン」ていうのは…
(これじゃ本当に負けちゃいそうだし…)

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隈氏設計の建造物

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日本を代表する建築家のひとりだ

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こんなところにも隈氏の建築!

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06/25
2018

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中島流「君たちはどう生きるか」

「いま君は、大きな苦しみを感じている。
なぜそれほど苦しまなければならないか。
それはね…
君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。
君が正しい生き方を強く求めているから…」

むむふむ、確かに小学生の頃何度かあった。
近所の家の“松かさ”を承諾も得ず取り込んで
苦情を受けた記憶が…
他人のものを勝手に使ってしまったことも…
そのたびに、いろいろ悩み、葛藤があったのは確か。

今考えてみると、そんな風に迷い考えることも
たくさんあったわけで、
それらは通るべくして通ってきているのかもしれない。
そしてそれは“正しい生き方”を
強く求めているからなのだろうか…

冒頭のくだりは『君たちはどう生きるか』の中の
おじさんからの手紙(ノート)の一部。
いろいろな方から何度か推薦されていた書籍なのだが、
ついに手に取りページを開くことが出来た。
いま、書籍と表現したが実は漫画版のほうだったので、
一日で読み終えることが出来たわけで…
それでもいろいろと考えさせられた内容だったということだ。

この『君たちはどう生きるか』は1937年に出版というから
80年前ということ。
なのに時代背景こそかなり違うが、
人の心の動きは変わらない。
誰もが通ってくるプロセスということなのだろう。

それにしてもだ、
60代も半ばにさしかかろうとしている今も
こんな書籍を手に取ると、
何かワクワクし、次なるチャレンジをしたくなるのは
私だけだろうか。

それはともかく…この“コペル君への手紙(ノート)”を
読んでいて気づいたことなのだが…

私が会社のスタッフのバースデイに手渡しているレターが
まさに、この“コペル君への手紙”なのかも。
自分が23歳のとき何を考え、どう行動していたのか。

30代のときあれほど仕事をかかえこなしてきたが、
それがその後にどう反映したのか。

そんな仕事をする者の先輩であり
クリエイターの先輩として、
いろいろとアドバイスしてるわけで、
まさに中島流の“君たちはどう生きるか”を
発信しているということ。

そのことにみんなは気がついてくれているだろうか。
いや、バースデイレターをもらうほうは、
そんな風にはとらえていないだろう。
(残念だが…)

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言わずもがなのベストセラー!

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私が読んだのは漫画版だったわけだが…

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06/18
2018

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秋保おはぎ「さいち」のタテの経営

「帰省する娘と孫におはぎを食べさせたい」
こんな年配の女性客の相談から
おはぎづくりは始まった。

今や秋保(あきう)おはぎは平日で5,000個、
お彼岸には20,000個売れるという。
1個105円だから、1日で525,000円!
×30日×12か月で1億8900万円の売上げ。
あくまでおはぎだけの売り上げでだ。

これに人気のお惣菜の売り上げが2億円超。
すなわち、おはぎも並ぶお惣菜の通路だけで
年4億円を稼いでいるのだ。
(お店の年商は7億円となる)

スゴ~~~。
セブンイレブンの日販の平均がついに70万円になったというから、
年間で約2億5,500万円。
店の大きさ的にコンビニに近いスーパー“さいち”が
いかにスゴい集客力を持っているか伝わっただろうか。

とにかく手間のかかるおはぎも含めた家庭料理に注力し、
仙台の中心から30分はかかるほどの温泉地でありながら、
これだけの実績をつくりあげたのだ。
だから“さいち”の佐藤啓二社長は83歳で
おはぎと同じくらい…いやおはぎ以上に輝いて見える。
(これって褒めてない!?)

そしてこのお総菜コーナーの立役者である
佐藤澄子専務(奥様)のレパートリーは、
なんと500種類を超えているという。

この徹底したお惣菜づくりの追求心がスゴイのだ。

その昔、お客さまのちょっとしたクレームから、
300種類はあったというレシピマニュアルを
捨ててしまったという。
(まぁ~通常は捨てはしないと思うけど…)
そのこともあって、
調理スタッフの誰もが、味に対する責任を持ち、
より美味しい惣菜づくりが可能になったようだ。

いろいろな葛藤があって、そして潔い決断。
それを徹底したその先にこそ、
他の人たちがたどり着けない
ステージがあるということなのだろう。

私が“さいち”を最初に取材させてもらってから約15年。
その姿勢と情熱はいまだに変わっていない。
まさに他のスーパーやお惣菜屋さんを気にせず
とにかく“さいち”のあり方を
追求する姿勢であり展開なのだ。

まさに「タテの発想」であり、「タテの経営」がここにある。

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“さいち”の佐藤啓二社長は83歳!

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平日で5,000個売れるおはぎ

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「タテの発想」、「タテの経営」がここにある!

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06/11
2018

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300人が固唾をのんだ瞬間

「今日は、こんなにも大勢
集まっていただきありがとうございます。
北海道の母にも来てもらいたかったのですが 、
残念なことにどうしても…母も来たかったと…」

(親方は言葉をつまらせてしまい、
暫くの間は言葉も出ない状態に)
このシーンは「角界入門四十年・理事就任を祝う会」
での芝田山親方御礼の挨拶でのこと。
親方の苦労をかけた“母への思い”が
集約されていたシーンだったのだ。

このイベントに参加してくれた方々は全国から 300 人超。
親方の予想をはるかに超えた参加率だったということもあり、
2 会場を使ってのイベントとなった。
それだけ多くの関係者がこの祝う会に参加してくれたことも、
“母への思い”につながったに違いない。

私も芝田山親方とは同郷のよしみで、
いろいろとお世話になっていたこともあり
参加させていただいたのだが…
この瞬間が一番の感動のとき。
(仕事柄、カメラを構えてしまうわけだが…)

参加者の 300人超の方々が、
親方に集中し一斉に固唾をのんだ瞬間と言っていいだろう。
そして誰もが親方の“母への思い”に感動していた。
この日の祝いイベントは、漫談あり、落語あり、歌あり、バイオリンあり、
そしてブラジルサンバありと…とにかく出し物が目白押し。
それでも集まった方々の一番の感動は
この親方の“母への思い”だったに違いない。

どんなに大きな横綱大乃国になっても、
自分の子として母親が常に
心配してくれていたことを知っていたのだ。
(芝田山親方の情が見えた瞬間だったような…)

この挨拶の後半で親方は、今更の一言。
「本当は相撲取りになりたくなかったんですが…」と。

再び会場の300人がどよめいた!

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全員が一斉に固唾をのんだ

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「角界入門四十年・理事就任を祝う会」での出来事

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誰もが親方の“母への思い”に感動していた

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06/04
2018

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美食の街“サン・セバスチャン”の所以

このマリネ風のも食べてみたいし、
あの生ハムの乗っているやつも食べてみたい。
いや、こんなに食べれないかもしれない。
(これが美食の街のバルってこと)

人気の天才的シェフは自分のレシピや手法を
同業界の人に教えることなどないのが当たり前。

お客さまを独占したいし、
競合他社とも差をつけておきたいだろうし…それが普通。
ところが、サン・セバスチャンの
若いシェフたちは違ったのだ。
どんどん新しい料理を試行錯誤しながら追求し、
教え合ってもいた。

そう、常にオープンマインドの姿勢で
料理と対峙していたということ。
サン・セバスチャンの料理人たちは、切磋琢磨することで、
どんどん腕を上げ、
地球規模での口コミをつくり出すことになった。

だから繁盛店バルがずらりと並んでいて、
そのお客さまは店の外にまであふれているのだ。
そして、これだけ色鮮やかにピンチョスが並んでいたら、
そりゃどれも食べたくなるのが当然。
ついついピンチョスを2皿3皿と手に取り、
チャコリ(バスク地方の白ワイン)も思わず
おかわりしてしまうわけだ。

もちろん、このオープンマインドの姿勢だけが、
サン・セバスチャンを“美食の街”へとしたわけではなく、
この地が山あり、川あり、海ありの食材の宝庫であることも
重要なファクターと言える。

そして、1970年代にフランスで起きた
「ヌーベル・キュイジーヌ」が、
ここスペインのバスク地方にも大きな影響を与えたという。
(いや~美食の街“サン・セバスチャン”の所以を
語るには行数が足りない)

とにかく、飲食業と一次産業の連携であり、
料理人たちのパッションが美食の街
“世界のサン・セバスチャン”を演出したということ。

インターネットの世界でも、“オープンソース化”が
さまざまなソフト開発のスピードを早めたのは
間違いないわけで、私はこのサン・セバスチャンの
若い料理人たちの“オープンソース化”こそが立役者だと…

そういえば、サン・セバスチャンの
タパスでありピンチョスにはフレンチの影響もあり、
ほとんどの小皿にオープンソース(?)がかかっていたような…
(はははは…)

“美食の街の所以”の続きは、次週のビジ達で!

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Mr.セイージもご満悦

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どれもおいしそうだ!

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お店は大繁盛

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是非また味わいたいものだ

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