09/30
2013
『晏子』 宮城谷昌光著
「汝は将軍である。萊都(らいと)を攻め、
萊公を殺し、萊を征服することが務めなり」。
「萊を攻めるのは、矛や戟(げき)をつかうのではなく、
君主の徳という明かりをかかげて前途を照らし、
言葉で蒙(くら)さを拓き心で攻める」。
これは、宮城谷昌光著『晏子(あんし)』の中にあるやりとりの一部。
斉(せい)の君主である霊公(れいこう)と
将軍に抜擢された晏弱(あんじゃく)の会話だ。
『晏子』とは、春秋時代(紀元前500年~600年)の斉を支えた、
父・晏弱とその息子・晏嬰(あんけい)を描いた中国史小説のこと。
晏子の“子”とは「先生」という意味であり、
晏弱・晏嬰ともに晏子として讃えられていた。
今回はそこから注目した部分を、中島流にご紹介する。
それが、冒頭の霊公と晏弱の会話。萊の国を手に入れるため、
武力をもって征服しようとする霊公に対して、
晏弱は萊の民を徳によって感化させることを提案するのだ。
それでも国を手に入れること(目先の利益)
のみに囚われている霊公に対し、
晏弱は草木の喩えをもって説明する。
ただ武力で征服しても、
いずれ反感を持つ民によって争いが起きてしまう。
それは(ここからが私が着目したポイント)
「草木の実をすべて獲って、根の存在を忘れているのと同然である。
根を労ることができなければ、
二度とその草木が実ることはないだろう」、と。
霊公はこの提案を聞いて、
そのすべてを晏弱に任せることにする。
その結果、しばしの年月をかけて萊の民を説得したことで、
征服後も民から望まれるような政治を行うことができたのだ。
この喩えを聞いて浮かぶのは、
奇跡のりんごでおなじみの“木村秋則氏の自然栽培”。
自然の植物はもちろん、
物事は目に見える上辺だけで決まるものではない。
その元にある根や土壌をなおざりにしてしまえば、
その上にある幹や枝葉が立派に成長することはないということ。
このような、木村氏がりんごの無農薬栽培で
自然から学んだことは、晏子の考え方にも通ずる。
2500年前に晏子はすでにそのことを理解し、実践していたのだ。
時代は変わっても、地球上における根本は変わっていないということ。
ビジ達でこのところご紹介している
「益はなくとも、意味はある」という考えも、この「晏子」の中にある。
このように、昔も今も必要とされる考え方を、
「晏子」は私たちに伝え続けているのだ。
400ページが4巻もある本だけれど、学ぶところは多い。
ちなみにこの本を推薦してくれたのは、
あの鍵山秀三郎氏(イエローハット創業者)だ。
また『晏子』の第2弾を紹介するときがくるだろう。お楽しみに!