02/24
2026
「是処即是道場(このところすなわちこれ道場)」 “道元禅師”が愛した言葉だという。
「是処即是道場」…今いる、この場所こそが修行の場。
毎年のリーダーズセミナーでは、
恒例行事として臨済宗建長寺派の林香寺にお邪魔している。
そこで、住職であり精神科医でもある川野泰周先生に、
坐禅体験とマインドフルネスの講義をお願いするのが習わし。
川野先生は慶應義塾大学医学部を卒業後、
精神科医としてのキャリアを積みながら、建長寺専門道場での
厳しい修行を経て禅僧となられた稀有な経歴の持ち主。
この体験はリーダーズ参加者にも非常に好評で、
中にはこれがきっかけで坐蒲(ざふ)を購入し、
坐禅を日常に取り入れているメンバーもいるという。
先日、いつも手にする雑誌に、その“日常と修行”に通じる
道元禅師の逸話が掲載されていた。
川野先生は臨済宗、道元は曹洞宗の開祖と宗派こそ違うが、
そこに流れる本質は一緒と言っていいだろう。
【道元、老典座(ろうてんぞ)との出会い!】
道元は名門の出でありながら、
幼くして両親を亡くしたことが転機となり、
十四歳で比叡山にて出家した。
しかし、十五歳の時に触れた
「本来本法性 天然自性身(人は皆本来、仏性を持っている)」
という言葉に対し、
「それならば、なぜ我々は厳しい修行をしなければならないのか」
という根本的な疑問を抱くこととなる。
国内で十年禅を学んでもその答えは見つからず、
ついに二十四歳で海を渡り、宋(中国)へと入った。
そこで道元は、一人の老典座(ろうてんぞ・料理番)に出会う。
当時の道元は、坐禅や古い語録の研究こそが修行であり、
料理や掃除は雑用だと考えていた。
しかし、老典座は諭した。
「料理や掃除も皆修行であり、いつどこでも修行の場なのだ」と。
これは道元にとって痛烈な“警策(きょうさく)”となり、
大きな覚醒をもたらしたのだ。
その後、生涯の師となる天童如浄(にょじょう)禅師と出会い、
ついに長年の疑問が氷解する瞬間が訪れる。
ある朝の坐禅中、居眠りをする僧を如浄が一喝した。
「坐禅の目的は“身心脱落”にある」。
この言葉を聞いた瞬間、道元は大悟徹底(悟り)した。
「仏性を持っていても、修行しなければ現れてこない。
体認しなければ得ることはできない」。
後年、『弁道話』の中でこの時の喝破について記されているという。
【この日常こそが、修行の場⇒凡事徹底!】
「“是処即是道場”今いる、この場所こそが修行の場」
この行に触れた時、この“ビジ達”で度々取り上げている
鍵山秀三郎相談役の「凡事徹底」と、
驚くほど重なるものを感じたのだ。
鍵山相談役は、トイレ掃除をはじめとする毎日の掃除を、
ただ漫然と行うのではなく、自分なりのルールを作り、
徹底して行うことを説いている。
場合によっては、そのルールを進化させ、
より深く、より丁寧に向き合っていく。
これこそまさに、道元が老典座から学んだ
「雑用などない、すべてが修行である」という境地ではないだろうか。
特別な場所へ行き、特別なことをするだけが修行ではない。
日々の仕事、家庭での役割、あるいは毎朝の掃除といった
日々のルーティンの中にこそ、自身を磨く種がある。
↓ ↓ ↓
リーダーズセミナーで坐禅に触れたメンバーが、
日常に戻ってからも坐蒲の上に座り続けるように、
大切なのは“継続と実践”である。
仏性が誰にでも備わっているように、成長の種は誰の中にもある。
しかし、それを芽吹かせ、花開かせるのは、
日々の地道な“凡事徹底”でしかない。
「いまだ修せざるにはあらわれず」。
すなわち、やらなければ、何も顕現化しないのだ。












