10/15
2013
意味ある、再読へ!
「無益かもしれぬが、無意味ではない。と、霊公はおもった。」
この言葉は、二巻の中頃を過ぎた頃に出てきた。
しかし、私が期待していたのは、晏子が語るその言葉だった。
いろいろと事件があり、それらを晏子流に俯瞰してひとこと
「益はなくとも、意味はある」。その言葉が欲しかった。
だから私にとっては、霊公が語るこの言葉が、
目的なわけではなかった。
ところが、二巻のそれ以降にも、三巻にも、
そして四巻(終巻)にも、
ついに晏子の語るその言葉は出てこなかったのだ。
あの予想だにしない場面で語られた霊公の言葉が
鍵山相談役が語るそれだったのだろう。
少し期待はずれで残念な気分だが、
宮城谷昌光著の「晏子」はとても面白く、
多くの気づきを私に与えてくれた。
400ページを超える文庫本が四巻の長編小説。
約1ヵ月間、常に「晏子」はバッグの中に入っていた。
あるときは、2冊がバッグで持ち運ばれ、
あちこちと旅をしていた。
重いと感じるより、電車の中でそれを開く楽しみ
が勝っていた。
だから、降りる予定の駅を通り過ぎても、
あえてその世界に入り込んでいるときもある。
また、ホームのベンチで周りを気にせず
しばらく読みふけっていることもあった。
面白い書籍とは、そういうものだ。
ところで、なぜ鍵山相談役が、晏子が語ったわけでもない、
それもクライマックスでもないところの言葉に着目したのか。
それは、二巻目の後半に静かに語られる言葉であるにも関わらず…。
恐らく、人は本を読みながらそれぞれの内容に自分なりの
想定をして、読み進めていく。
だから、心を動かされる瞬間とは、人それぞれで異なるのだ。
そして、鍵山相談役は“無益かもしれぬが、無意味ではない”の
言葉に深い感動と共に強い共鳴感を抱いたのだ。
それは、掃除を50年もの間徹底してきた鍵山相談役には、
特に意味のある言葉だったということだろう。
言葉の奥行に気づき、共鳴感を持つことも、
さまざまなチャレンジの経験と実践を併せ持つ人にしか
与えられないのかもしれない。
私に出来ることと言えば、もう一度「晏子」を
読み直すことでもっと気づきを多くすることしかない。