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06/03
2024

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“半兵衛麸”の企業文化、「先義後利」から学ぶ!!

「企業文化をデザインしよう!」という小見出しで、
少し前に“QBの企業文化”についてあれこれ語ったわけだが…
改めて考えてみるとその中心にあったのは「Creating Synergy」。
すなわちQBはさまざまなクリエイティブワークを通して
”社会に相乗効果を創っていこう!”ということ。
(いまのQBのキャッチフレーズは“つながりのデザイン”だけど…)

そしてこだわりのキーワードは2つ、
“行動”の価値観が「先義後利」、
“発信”の価値観は「不易流行」。
今回はQBの“行動”の価値観としての「先義後利」について
改めて深掘りしてみたい。

まさに“不易流行”の“不易”の価値観。
「先義後利」は約2300年前の中国戦国時代の思想家・
荀子の栄辱篇から引用された言葉。
江戸の中期、1730年ごろ、京都で町人のための塾を開いた“石田梅岩”が、
商人の心得として教えていた言葉でもある。
(石田梅岩先生については、「石門心学・実践講座」として
毎月勉強会を開催しています↓)
https://bt.q-b.co.jp/wp-content/themes/qb/pdf/sekimon_230711.pdf

【経営者向け月刊誌の取材により「先義後利」と出会う!】

経営者向け月刊誌の企画編集(11年間継続)をお手伝いしていたことで、
京都の友人から紹介された京都の老舗企業“半兵衛麸”さんを取材。
その時お会いした半兵衛麸11代目は、和服をきちんと着こなし、
京都の旦那衆を絵に描いたようなたたずまいで、優しい語り口の方。
そのお話は私にとっては“目からウロコ”の話で、京都の老舗企業が
数百年にわたって続いてきたその一端を知る機会となったのだ。

「親から財産や金銭など何も受け継ぐものはありませんでしたが、
それ以上に価値あるものを受け継ぎ、
今の“半兵衛麸”を築けたと思っております。
300年の歴史の中で10年間、お麩を作れなくなった時代がありました。
戦争が激しくなった昭和18年から戦後の昭和27年までのことです。
戦争が終わった直後、同業者がヤミでお麩を作り大儲けをしていたのをみて、
子供だった私は父に“ヤミをやろう”と言ったのです。
すると10代目の父は私にこう諭しました。

『うちは昨日今日できたお麩屋やないんや。
先祖代々がお麩屋で生きてきたんや。
このありがたいお麩をヤミからヤミに葬り、
金儲けするなんてマネはできないんや。
そんなことしたら、ご先祖に叱られるで。
こんな世の中はそう長くは続かない。
必ずきちんとした商売ができるときが来るから、それまで辛抱しいや』
この言葉は今でも私の心に残ってます。
そして、父のこうした商売に対する律儀な姿勢は、
“半兵衛麸”に脈々と受け継がれてきたものであったことを、
後年私は知ることになります」

当時たった一人で再建をしなければと気負っていた11代目だったが、
さまざまな人たちに助けられ支えられ“半兵衛麸”は復活した。
父、そして祖父、としてそのまた父と、連綿と続いてきた人と人の関係。
何より人との信頼を重んじてきた「義の心」が生きていたということ。

その後借家の押入れから荒縄で縛った箱が出てきた。
その箱を開けてみると、1枚の掛け軸と、
“半兵衛麸”の歴史を知る上で貴重な資料が入っていた。
掛け軸には「先義後利」の書が書かれていたという。
実は半兵衛麸の3代目当主の三十郎氏は、
石田梅岩の教えである“石門心学”に傾倒し、
「先義後利」の教えを、“半兵衛麸”の家訓にしていたのだ。
すなわち11代目が戦後に身を持って経験した
「先義後利」のエピソードは歴代の“半兵衛麸”の当主が守ってきた
経営哲学そのものであったのだ。
↓ ↓ ↓
この「先義後利」との出会いは約20年くらい前のこと。
その後、東京で半兵衛麸11代目をお呼びしてセミナーも開催したが、
私はこの“半兵衛麸”の歴史とエピソードも含めて
「先義後利」をテーマにした『儲けないがいい』を上梓することとなった。
経営者向け情報誌を制作していたことで、
まさに“Creating Synergy”、相乗効果が拡がっていったのだ。

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QBはどんな山を登っているのか!

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