02/16
2026
“学び”こそ人生最高の贅沢な遊び。 “役に立つ”を超えた先へ!
あるテレビの番組でのこと…
シンガーソングライターの小椋佳氏(82歳)が、
「人間の1番贅沢な遊びは、“学び”である」と語り、
自身もピアノやフランス語の習得に励んでいるという。
この言葉に触れ、
「自分にとっても“学び”こそが最大の悦びかもしれない」
と共感を覚える人も少なくないだろう。
実は、24年目を迎えたこの“ビジネスの達人”を
あれこれ考えを巡らし探索し、そしてまとめ発信するのも、
仕事であり、“学び”であり、遊びかもと
思っていたところだったのだ。
大人になってからの“学び”は、
若い頃のそれとは決定的に異なる。
点数のためでも、昇進のためでもない。
ただ純粋に“知りたい”“できるようになりたい”
という好奇心を燃料とする“学び”は、
人生を彩る最高の贅沢なのかもしれない。
【終わりのない多くの知の探求者たちが…】
歴史を振り返れば、
晩年になっても新しい世界の扉を開こうとした偉人は
枚挙にいとまがない。
例えば、江戸時代の測量家・伊能忠敬。
香取市佐原を訪れたとき、忠敬が婿入りしたという
伊能家の保存家屋を見学した記憶がある。
すなわち、彼が本格的に天文学や測量術を学び始めたのは、
隠居後の50歳を過ぎてからということ。
“50の手習い”どころか、そこから日本全土を歩き回り、
正確無比な日本地図を完成させた情熱は、
学びこそが生きる活力であったことを証明している。
また、画家の葛飾北斎もそうだ。
「富嶽三十六景」で知られる彼は、
90歳で亡くなる直前まで画業の向上を願い、
「天があと5年の命をくれたら、本物の画工になれたものを」
と言い残したとされる。
→“すみだ北斎美術館”には、北斎の引越し魔ぶりも語られていた。
彼らにとって、老いや引退は“学び”の終わりではなく、
むしろ制約から解放され、
より深く没頭できる“学びと遊びの時間”の
始まりだったのではないだろうか。
【役に立つを超えたところから“遊びとしての学び”が…】
豊かである現代社会では、“学び”といえばすぐに
“スキルの習得”や“資格取得”といった
実利的な側面が強調されがちだ。
もちろんそれも重要だが、小椋氏の言う
“贅沢な遊びとしての学び”は、
役に立つかどうかを超越したところにある。
古代ローマの哲学者セネカは、
代表作『人生の短さについて』で、時間は寿命の長さではなく
“いかに有意義に過ごしたか”で決まると説き、
哲学することこそが、時間を最も有益に使い、
人生を長くする方法だと。
これらは即座に金銭を生むわけではないが、魂を揺さぶり
日常の風景を一変させる力を持っているとも。
→うんうん“ビジ達”のために、未来のビジネスについて
あれこれ巡らすことは、私の人生にとっても意味あること…
↓ ↓ ↓
「人間の1番贅沢な遊びは“学び”である」。
この言葉の真意は…
“学び”とは未知の自分に出会う旅そのものだということだろう。
昨日の自分には理解できなかったことが、今日の自分にはわかる。
その静かな、しかし確かな成長の喜びは、何物にも代えがたい。
私も古稀を過ぎ、ここからが人生をより豊かにするための
“学び”のときなのかも?!

















