これからの選ばれるビジネス!

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選ばれる仕事道

06/24
2024

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人気の「庭のホテル東京」には、 “デザイン思考”が活かされている!!

「こころに、庭を」を大見出しに
“庭のホテル東京”らしい全面写真を表紙にして
「HAKO*NIWA」という広報誌が届いた。

“庭のホテル東京”は開業15周年を迎えたという。
旅館時代から数えるとなんと90周年だとも。
この写真からも伝わるように、そのホテルの空間は
滞在者に安らぎと贅沢な体験の時間を提供する。

(表紙のリード文)
「“庭のホテル東京”は、2009年5月18日に誕生しました。
従来のビジネスホテルでもない、シティホテルでもない、
どこにもないホテルを作ろうという思いで生まれたホテルは、
これまでたくさんのお客様に支えられ、
おかげ様でこのたび15周年を迎えることができました。
私たちはこれからも皆様の心に寄り添う
“庭”のような存在でありたいと願いながら…」

【経営者会議の視察セミナーでも“庭のホテル東京”を訪問】

私が“庭のホテル東京”の木下 彩さん(元オーナー企業の代表)と
知り合ったのは10数年前(?!)で、
日本のプレミアムなホテルとして注目され始めたころ。
“ミシュランガイド東京”でも快適なホテルとして
10年連続で紹介されるなど、都内でも外国人に人気が高いホテル。
当時から海外の旅行口コミサイトなどでも
評価の高い声が多く取り上げられていたのだ。

ということで、私が主宰する経営者会議の視察セミナーでも
ホテルを訪問し視察もさせてもらい、木下代表にお話をしてもらった。

参加者の多くが、ロビーやレストランからの視点はもちろん
いろいろな角度から“庭のある空間”を見学させてもらったことで、
なぜ選ばれるかも体感とし理解してもらったはず。

お客さまの口コミであり評判も紹介すると…
【その1】→緑の多さに癒されました。
スタンダードタイプの部屋は少し狭く感じられましたが、
素敵なお庭が4つもあり、癒やしのホテルでした。

【その2】→素晴らしいホスピタリティに溢れたホテルなのに、
泊まりやすい価格帯。
都心なのに緑が多く、そこはかとなくいい香りがすることで癒されます。

【その3】→都会の学園地区にある、閑静な小じんまりした庭をテーマに
和モダンなシックで落ち着ける雰囲気のホテルでした。
夕食で特別に予約したダイニング風のフランス料理コースも、
プランに付いていた朝食での和定食も、
庭を眺めながらの雰囲気の良いスペースでの食事は格別でした。

【“デザイン思考”が活かされているから選ばれる!】

先に紹介したように“どこにもないホテルを作ろう”
という思いから生まれた“庭のホテル東京”。

すなわち論理と数値からはこのホテルは生まれない。
どんなにデータを入れ、数値化から割り出したとしても、
AIにいろいろな角度からプロンプトを投げかけ誘導したとしても
“庭のホテル東京”は生まれてこないということ。

そこで活躍するのが“デザイン思考”であり“感性思考”。

“デザイン思考”は、従来のマーケティングや商品開発の枠組みを超え、
ユーザーのニーズや感情に焦点を当てたアプローチ。
"庭のホテル東京"は、客室や共用スペースにおいても
和をテーマに洗練されたデザインと機能性を融合させ、
訪れる人々に心地よい空間を提供している。
ホテル内のインテリアや庭園は、単なる装飾を超えて、
滞在者に安らぎと贅沢な体験を提供する要素となっている。

このビジ達でも“デザイン思考” “感性思考”の重要性を
何度か投げかけてはいるが、これからの時代は特に
この“発想のジャンプ“(デザイン思考のプロセス)なくして
多くの人が“新しくそして興味が引かれる”ものはできてこない。

ちなみに、この“庭のホテル東京”の“デザイン思考的”アプローチが
ホテルの“文化資産”にもなっているということだ。

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“デザイン思考的”アプローチを取り入れよう

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06/17
2024

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拙著『儲けないがいい』での紹介企業は、 すでに“文化資本経営”を実践していた!

このところ改めて拙著『儲けないがいい』を手にして気づいたことだが、
紹介させていただいた企業のどれもが“文化資本経営”の会社であり、
明確な「How To Be(どうあればいいのか)」を持った企業だったのだ。 

なぜ、新しい業種や業態を構築して上手く成長している企業や
今どきの先端テクノロジーを駆使した企業でなかったのか⁈
私自身、存在意義があり、意味あるビジネスを展開している企業に
スポットライトを当てたかったのだ。
その結果として、“文化資本経営”を展開している企業を
取材し紹介していたということ。

【『儲けないがいい』に登場する、“文化資本経営”】

◆東京福生の“石川酒造”
敗戦直後、先に紹介した「先義後利」の“半兵衛麸”10代目当主と
同様の決断をしたのが“石川酒造”の16代目当主。
私の経営者会議に参画してくれているのは18代目当主だが、
その祖父にあたる方がこの16代目の石川彌八郎氏。
400年以上続く東京福生市にある酒蔵だが、
江戸時代には地域の名主(なぬし)として貢献していたという。
地域のこと、業界のこと、これからの社会のことを考え、
そして自社の“存在意義”と照らし合わせて
決断しているということだろうか⁈
(18代目の彌八郎さんも、地域を背負ってあれこれ走り回ってます)

◆仙台市の秋保温泉にある“スーパーさいち”
コンビニより少し広い売り場面積80坪ほどの
田舎の(?)小さなスーパーマーケット。
駐車場も第5駐車場まで存在し、惣菜とおはぎの並ぶ通路は
いつもお客さまでいっぱい。
ある時、社長の奥さまである専務は、
300にも及ぶ惣菜づくりのレシピでありマニュアルを捨てたという。
それはスタッフに自分がつくった味が店の味だと
自信を持って欲しいからだという。
そこからマニュアルに頼らない手間のかかる惣菜づくりが
始まったわけだが…
その惣菜ももちろん人気だが、おはぎは1日5000個も売れるという。
(そういえば、何度も経営者仲間を連れて、社長の話を聴きに行った!)

◆テレビドラマ『虹色のチョーク』のモデルとなった日本理化学工業
日本のチョークのシェア約70%を占めているチョーク製造販売会社。
社員のうちおよそ7割が知的障がいをもっているが、
一人ひとりが自分の役割をきちんと把握しながら働ける環境を
健常者とともに創り上げている。
1959年にある養護学校の先生が飛び込みでやってきて、
障がいをもった生徒を2週間預かることになったことから始まったという。
私が主宰する経営者会議やリーダーズセミナーでも
視察セミナー先として何度もお世話になっている会社。
(大山会長、いろいろありがとうございました)

◆足利市の三角山のブドウ畑が活躍する“ココ・ファーム・ワイナリー”
知的障がい者更生施設“こころみ学園”と共に運営する
“ココ・ファーム・ワイナリー”。
“こころみ学園”は1968年にスタートし、ワイナリーは1980年に設立。
1989年にはアメリカから醸造技術者のブルース・ガットラブ氏が加わり、
本格的なワイン醸造所へと変貌していく。
今では美味しいワインを創り出すワイナリーとして大人気。
障がいをもった生徒の教育者として関わっていた川田 昇氏(創業者)が、
目指したのは、“仕事に人を合わせるのではなく、
人に仕事を合わせる職場”。
(何度もお邪魔もしたが、いま思えば北海道十勝でのワイナリー構想も
この出会いがきっかけだったような…)
↓ ↓ ↓
これら企業の多く経営者の方々は、もう引退していると思われるが、
“How To Be”すなわち“存在意義”をしっかり持っていたからこそ、
“文化資本経営”の実践につながったということ。
自社の“企業文化”を意識的に創り出すのも経営者の仕事。
これからの企業の“強さ”であり“支援者づくり”につながるのも
この“文化資本経営”ということだろう。

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仙台市の秋保温泉にある“スーパーさいち”

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05/14
2024

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石丸伸二市長が語る、包括連携協定締結のワケ。 安芸高田市石丸市長と東京NBC井川会長対談

4月17日に安芸高田市と東京NBCとが包括連携協定を結んだ。
ある企業が自治体と連携協定を結ぶことはあっても、
経営者の集まりである“東京NBC”が
個別自治体と結ぶことは珍しいこと。

安芸高田市の抱える多様な課題の解決に向けて、
相互協力して連携事業を継続的に推進していくための協定である。
すなわちNBCの経営者たちが、事業家としてさまざまな事業を通じて
市の抱える課題をあらゆる角度から解決に導くという展開。
(うんうん、面白い連携協定なのだ)

その締結を記念しての石丸市長と東京NBC井川会長との対談の
ファシリテーションを私がさせてもらったということ。

【石丸市長と井川会長の包括連携協定への期待!】
https://www.youtube.com/watch?v=GDcjoiqqlpQ

(石丸市長)
安芸高田の少子化等による人口問題は、日本全国の自治体も抱える問題。
もう広島県の安芸高田市の自力だけでは、解決は難しいわけです。
そこで外のチカラを借りるしかないということから、
東京NBCさんとの連携協定につながったわけです。

(井川会長)
東京NBCには900社に及ぶニュービジネスを展開する経営者が
会員として存在し、互いに情報交換しながら
より事業を活性化させようと切磋琢磨しているわけです。
社会の新たな課題を事業を持って解決するのが、
中小企業経営者のスゴいところ。
自治体の活性化にいい事例となることを期待してます。

(石丸市長)
先日の東京NBCでの課題の投げかけプレゼンにより、
すでに10数件の提案をいただいています。
その案からも期待は大きく膨らんでいます。
そして、NBC会員の経営者による安芸高田市訪問も決まっています。
これによるブラッシュアップであり、新たな提案も期待しています。

(井川会長)
私は故郷、佐賀の“サガン鳥栖”のテコ入れにも関わり、
最後まで諦めない街の「夢づくり」が、交流人口の増大につながり、
経済の原動力になることは経験しています。

(石丸市長)
そうなんですよね~、だからこれからに大いに期待してるわけです。
この4月に発信した安芸高田市のキャッチフレーズ
「百万一心、未来へつなぐ」も全国から1700の応募をいただき、
最終的には、市内の中学、高校の生徒会長8人に選んでもらいました。
この地を支配した武将“毛利元就”の言葉をいただいての 
キャッチフレーズになっています。
この未来の安芸高田を担う若い人たちに関わってもらうことも
大切だと思っています。

(井川会長)
いい試みですね。
今回の安芸高田市と東京NBCの連携を知ったいくつかの自治体から、
すでに私たちも連携したいと手が挙がっているようです。
そういう意味でも、この安芸高田市の課題解決を
モデルケースにしたいと思っているんです。


実は日本にある約1700の自治体のほとんどが、
安芸高田市と同様の課題を抱えていると言ってもいいのかもしれない。
先日発表された“消滅する可能性がある自治体”が744自治体。
なんと全体の4割である。
もちろん人口3万人弱の安芸高田市もその中に入っているわけだ。

私も、より面白く、そして意味ある対談にしようと
ファシリテーションさせてもらったわけだが…
石丸市長は、全国の自治体が抱える課題を代表してSNSの発信含め、
さまざまチャレンジをしていることは間違いないようだ。

石丸市長の今後の身の振り方含め、目が離せない。

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東京NBCという外のチカラを借りる連携協定

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04/15
2024

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番組が36年も続くには、ワケがある! 大沢悠里さん、文藝春秋5月号に登場。

“Guess who I am.私は誰でしょう?!”
文藝春秋5月号「小さな大物」というコーナーに登場した
あのTBSラジオの大沢悠里さん。
何とラジオ一筋59年。
まさに“レジェンド”と呼ばれるに相応しい
アナウンサーとして紹介されていた。

文藝春秋におけるこのコーナーは、
その人の活躍を写真アルバムを通して紹介する展開。
大沢悠里さんが千歳飴を持つ時代の写真から、早稲田大学在学中、
そしてTBS入社試験用の写真も紹介されていた。
(この入社試験用の写真が、本物より男前なんだなぁ〜)

→永六輔さんとのラジオ番組写真。
「永六輔さんは、手を抜く人には怖いけど努力する人には優しい」
というコメントも。

→パーソナリティでもあった内海桂子・好江師匠との写真。
写真キャプションには“両師匠には人生を教わった”と書かれていた。

→“ゆうゆうワイド”最終回での歴代パートナーたちとの集合写真。
月曜から金曜まで、5人のパートナーと番組展開していたわけで
最終回にはみんなが集まってくれたという。

→そして何といっても毒蝮三太夫さんとの付き合いは60年!
ラジオ番組卒業後、毒蝮さんとゴールデンコンビとして、
『GG放談』つまりジジィ放談としてSpotify独占配信の
Podcast番組として展開している。

【36年も大沢悠里さんの番組が続く理由!】

1986年開始の「大沢悠里のゆうゆうワイド」は36年間続いた長寿番組。
とにかくず〜っと人気番組だったということ。
先程の番組パートナーへの対応もそうだが、
とにかくいつもの関係者を大切にしていた大沢悠里さん。

先日最終回を迎えた人気金曜ドラマ『不適切にもほどがある』にも
1986年、新たに始まったラジオ番組として、ドラマの中で
“ゆうゆうワイド”が紹介され、大沢さんが声の出演をしていた。
確かに昭和の時代から平成、令和と続いた
身近でポピュラー番組だったということ。

◆私の2冊目の著書『儲けないがいい』が出版された時、
大沢さんに番組内で紹介してもらった記憶が…
あ〜大沢悠里さんに書籍の帯の推薦文も書いてもらっていた。
(私もいろいろお世話になっています)

【“番組に関わる人を大事にしたい!”が大沢さんの思い!】

私も何度もTBSにお邪魔して、ゲストを紹介させてもらったり
イベントの打ち合わせをさせてもらっていた。
その度に感じていたのは、ゲストのお客さまはもちろん、
番組のパートナーであり、関係スタッフを大切にしているということ。
大沢さん曰く
「僕がいつもスタッフを可愛がることは、聴いてくれる人たちを
可愛がることだと思ってやってきました。
スタッフを優先して大事にすると、みんな一所懸命に仕事をしてくれるし、
それは聴いている人にも伝わりますから」

ということもあり、大沢さんは毎日の番組の最後に必ず、
出演者とスタッフ全員の名前を読み上げている。
(まるで映画の最後の字幕のように…)
限られた放送時間のなかでもそれを続けたのは、
やっぱりスタッフを大事にしたいという思いから。

まさに大沢悠里流、大人気アナウンサーの仕事道!

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「小さな大物」というコーナーに注目

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04/08
2024

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日本の“ロケット開発の父”糸川英夫先生は、常に“逆転の発想”の人だった!?

JAXA種子島宇宙センターの“日本のロケット開発の変遷”には
「第二次世界大戦後にゼロから再出発した日本のロケット開発。
1955年に糸川英夫教授が、わずか23cmの“ペンシルロケット”を
発射してから現在まで、日本のロケットはさまざま変遷を経ながら、
短期間で大きな進歩を遂げてきました…」と書き綴られていた。

ほう、1955年といえば私が生まれた年。
その頃に日本では初めてのロケットを…それもあの糸川先生が…

昨年10月、ある経営者会議のリトリートで
ついにJAXA 種子島宇宙センターを訪れることとなった。
もちろん種子島だけでなく、お隣の屋久島も訪れるわけだが…

とにかくロケット打ち上げの度にテレビで観ていた
あの打ち上げの基地であり、カウントダウンの際に関係者が
緊張した面持ちで集まる部屋もついにナマで見られるわけだ。

そして“わが国初めての”という本格的展示館に入り、
最初に目に飛び込んできたのが
この「日本のロケット開発の変遷」というタイトルと糸川英夫教授の写真。
(私だけはその前でしばらく立ち尽くしてしまった)

実は糸川英夫先生の80歳(?)の誕生日前後に
当時の『月刊オムニ』の編集長から紹介されお会いし、
その後も六本木にあった“組織工学研究所”を何度か訪れ、
糸川先生に直接取材をさせていただいていたのだ。

多分1991~2年頃だと思うが…
私のようなロケットのことも組織工学のことも知らない者にも
優しく丁寧にあれこれ教えてくれていた。

そしてある日、「わが社の一緒に取材した女性スタッフが、
糸川先生のこと、素敵な方だと言っていましたよ」と伝えると
糸川先生は真剣な表情で「今度、ぜひ紹介してください」という。
(日本で初めてロケットを飛ばした人らしくない受け応えがいい)

【小惑星探査機「はやぶさ」と、小惑星「イトカワ」の意味?!】

さて、みなさんは小惑星探査機「はやぶさ」であり
小惑星「イトカワ」を聞いたことがあるだろう。
2003年5月に打ち上げられたJAXAの探査機が「はやぶさ」。

そしてその小惑星探査機「はやぶさ」が長い苦難の末、
小惑星に着陸してサンプルを取得したのだが、
その小惑星の名前が「イトカワ」となったのだ。

実は糸川さんは“中島飛行機”時代、イノベーションといえる戦闘機を
いくつも設計していて、その中でも注目なのが「隼(はやぶさ)」である。
これでネーミングの意味が理解していただたけただろうか。

小惑星探査機「はやぶさ」が、サンプルを取得した後、
2010年6月に無事帰還した。
世界初の地球・小惑星間の往復飛行の達成であり、
世界初のサンプルリターンの成功として大きく報じられた。
この「はやぶさ」が着陸した小惑星は、1998年に
米マサチューセッツ工科大学の小惑星研究チームが発見した
小惑星ではあったが、糸川さんがかつて所属していた
東京大学宇宙航空研究所(現JAXA)の後輩たちが命名権をもらい
「イトカワ(itokawa)」と命名したという。

【“逆転の発想”のイノベーター糸川英夫先生だった?!】

このJAXAにとって、“イノベーター糸川英夫”は、
かけがえの無い存在だった…いや今もかけがえの無い存在のはず。
そしてロケット開発を引退した後も話題の多い糸川先生だった。

そういえば…
ストラディバリウスにも負けない音を出すバイオリンも開発していた。
還暦を過ぎてからバレエを習い、日比谷の帝国劇場で
「ロミオとジュリエット」を熱演したという。

1974年に出版した『逆転の発想』は、その後の続編等も含めると
120万部を超えるミリオンセラーを記録したという。
(うんうん、私も読んだ記憶が…)

私が偉そうに語ることはないのだが、こんなに活躍された
“糸川英夫先生”と、ある時期交流を持てたことが嬉しい。
今年の2月に出版された
『国産ロケットの父・糸川英夫のイノベーション』(田中猪夫著)
を読みながら、その当時を思い出しながらニヤけてしまった次第。

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JAXA 種子島宇宙センターでの写真

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『国産ロケットの父・糸川英夫のイノベーション』(田中猪夫著)

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